しばらくぶりに、大学時代の友人からメールが来た。長い間つきあっていた恋人(この人も自分の友人です)と別れたらしい。
その話を聞いて、特に驚きはしなかった。充分大人になった彼らが彼らなりに考えて出した結果なのだ。蚊帳の外からどうこう言うのは野暮というものだ。
驚く代わりにその時、頭の中にある生徒との会話がよぎった。
「先生、先生は、フった回数とフられた回数、どっちが多いの?」
僕らが中学生の頃もそうだったのかもしれないけれど、何かとこの年頃はフっただのフられただのにこだわる。そして、「フった=ひどい」「フられた=かわいそう」という公式みたいなもんが、彼らの頭の中にはあるようだ。自分もそうだったのかもしれない。
とりあえずその回数については内緒、としておいて。
フったにしても、フられたにしても、立場が違うだけで、別れはつらいものには違いない。
別れを告げられた側からしてみれば、そばにいるのが当たり前だった心の一部だとでも言うべき人が、急にふっといなくなってしまうわけだ。それは血肉をえぐられるようにつらい、これは当然。
でも別れを告げる側も、それに負けないぐらいのつらさを味わっている。自分を愛してくれている人のことを、愛せなくなってしまったのだから。自分のことを変わらず愛してくれている人を失意の底に落とすのは、まぎれもなく自分なのだから。傷つけたくなくても、自分の気持ちには嘘はつけない、その人をだますこともできない。
別れを告げる側も、つらいのは同じ。自分の口から出た別れの言葉が、大切な人の笑顔を、凍り付かせるのだから。
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