二日目のメインは、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。
市電に乗って、平和公園のある松山町へ向かいます。 今日も長崎は、晴天。暑くなりそうです。
松山町には、9時半ぐらいに到着。会場はすでに、人でいっぱいです。それぞれの思いを胸に、式典参加者はゲートをくぐります。
粛々と、式は進みます。
昨年、189カ国が加盟する核不拡散条約の再検討会議が、成果もなく閉幕し、その後も進展はありません。
核保有国は、核軍縮に真摯に取り組もうとせず、中でも米国は、インドの核兵器開発を黙認して、原子力技術の協力体制を築きつつあります。一方で、核兵器保有を宣言した北朝鮮は、我が国を始め世界の平和と安全を脅かしています。また、すでに保有しているパキスタンや、事実上の保有国と言われているイスラエルや、イランの核開発疑惑など、世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面しています。
核兵器の威力に頼ろうとする国々は、今こそ、被爆者をはじめ、平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核兵器の全廃に向けて、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきです。
また、核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです。
伊藤市長は、平和宣言の中で核兵器保有国や保有・開発疑惑国を名前を挙げて批判し、恒久平和の実現に力を尽くすことを決意表明しました。
つい3年前、55才を迎えた被爆二世の次男は、白血病で亡くなりました。放射線がまだ生きていたのです。先生から「次男の広さんの白血病は、母体からもらったものです」と言われたこの一言が忘れられず、私は今も苦しんでします。
61年前の記憶を忘れることはありませんが、語ること、書くことの苦痛から、身を避けていた自分を反省し、今、戦争の愚かさ、怖さ、むごたらしさを「伝えなければならない」との切羽詰まった思いがあります。それは、戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が、戦争前の様子に重なり、居ても立ってもいられないからです。
戦争が残す国民や被爆者への贈り物は、未来永劫にもう要りません。被爆二世、三世の援護も切実なことです。核が使われれば、逃れる方法はありません。
私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい。そのためには、私も残された人生で、出来る限り努力し続けることを誓います。
被爆者代表の中村キクヨさんは、今も苦しんでいる胸の内を明かし、平和への願いを訴えました。
いち科学者として科学を扱う責任を、いち教育者として戦災を伝える責務を、改めて認識した式典でした。
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